先日、あるプレゼン審査の場で、
審査員から印象に残る言葉を受け取った。

「埋蔵文化財と、文化は違うのではないか。」

強い否定というより、
率直な感覚に近い問いだったのだと思う。
そして同時に、
長くこの分野に関わってきた立場からすれば、
繰り返し出会ってきた境界でもあった。

――また、この認識に触れたと。

表現としての文化、記録としての文化

一般に「文化」と言うとき、多くの場合それは、
音楽や舞台、美術、映像といった表現としての文化を指している。
文化を支援する制度の多くも、
こうした表現活動を中心に設計されてきた。
その枠組みの中で、地中から見つかる資料や遺跡に関わる営みが
文化とは異なる領域のものとして受け止められてしまうことは、
必ずしも特別なことではない。

制度の言葉と、社会の感覚のあいだ

しかし一方で、法制度の上では、
文化財の保存と活用は
社会の文化的基盤を支える営みとして明確に位置づけられている。
文化財保護法においても、
文化財の保存と活用は国民の文化的向上に資するものとして
位置づけられている。
つまり制度の言葉においては、
文化財は文化の外側には置かれていない。

それにもかかわらず、社会の感覚の中では
両者のあいだに距離が存在している。

ここに、
長い時間をかけて形成されてきた
認識の乖離がある。

守ることに偏ってきた歴史

では、この距離は、どのように生まれてきたのだろうか。

埋蔵文化財はこれまで、
失われやすい過去の痕跡として、
何よりもまず守るべき対象として扱われてきた。
その歩みは不可欠であり、大きな意義を持っている。

しかし同時に、保護を優先する歴史の中で、
文化財は専門領域の内側へと位置づけられ、
社会と共有される文化として語られる機会を
十分に持たないまま今日に至った側面もある。

社会に開かれる文化へ

もし、埋蔵文化財が文化として実感されにくいのだとすれば、
それは社会の無関心だけでは説明できない。
守ることに力を尽くしてきた一方で、
社会に向けて伝える営みは、どこまで行われてきただろうか。
文化財を守るという姿勢そのものが、
結果として社会との距離を広げてしまった可能性もある。

埋蔵文化財は、
過去の遺物ではない。
社会が時間の中で積み重ねてきた
共有の記憶である。

文化とは何か。
文化を守るとは何か。
その問いを、
専門の内側だけでなく、
社会の中へと開いていく必要がある。
いま求められているのは、
まさにその営みなのだと思う。

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